昭和42年05月03日 朝の御理解



 教祖の神様の御直信と言われております方達の中に、佐藤宿老という、後の佐藤宿老です、佐藤範夫という方なんです。三代金光様の奥様のお父様にあたられる方なんです。昭和の左甚五郎を目指して大工になられた。様々な御修行にあわれ、御神縁を頂かれて、初めて教祖の神様にまみえられた時に、一番始めに、初対面ですね、神様にお会いになって帰られる時に。
 その教祖の神様の御神徳というかお人柄というか、そういうものに接しられて、今の丁度、本部参拝された方は分かりますね、丁度金光町の中間に御影橋というのが御座いますね。あの御影橋の袂で、金光様の御寝所が御座いますね、一番始めに家を建てられた所、あちらの方、竹薮の中にあったんです。あちらの方を振り返って御覧になってから、感激された。大谷のあの竹薮の中から金光様が毎日、天に通われる道が付いておるというて感激されたと云う事ですね。
 あの竹薮の中から金光様が、毎日天にお通いになる道が続いておる。こりゃ大変な教えだと大変な信仰だと。今まで神道とか仏教とか言う様な、普通の俗信仰の事からの程度しか知っておられなかった。当時のお百姓の先生が、そう仰っておられますね。天に通う道、私、今日御神前で頂く、通天、天に通う、天に通うという道を頂くんです。確かにお道の信心はですね。
 天に通える道です。当時の神様御一人じゃない。信心さして頂く皆が、天に通える道なんです。至誠、天に通ずる道という言葉がございます。又はお道では真ひとつで助かる道ともいう、おかげにならぬその時は、真が欠けたと悟れとも仰っとられます。お願い事が成就しない時には真が欠けたのじゃと。いわゆるこの真という言葉を使います。御教えの中にも真というのが沢山出てまいります。ですからお道の信心をさして頂くものは、その真を追求する。
 是は自分のまあだ真が欠けておるんだという事なんだ。真をもって天に通える道だから、真の道とも言われるお道の信心は真の道だと。仏教で言う慈悲ね、お慈悲ですね。キリスト教で言う愛、神愛、愛の心。お道でそれに匹敵する言葉というならば、お道では矢張り真と云う事で御座いましょうね。ですから、その真が段々強うなっていかなければいけません。真で成就せん事はない。
 成就せん時には真が欠けた時と仰る。昨夜、毎晩ここの部落の方達が四人五人お参りになります。昨夜もお参りになっておられます中に、幸若さんて方が毎晩参っておられます。非常に、この熱心に素直に、いうなら筋のよいお道の信心を分かろうと、こう願っておられる様に感じられます。三、四日前から御主人が腰が痛まれる、立たれない程に痛む。その事の願いがしてあった。おかげを頂いて。
 昨日お礼お届けがあったんですけども、おかげを頂いて、御神米御神水おみきさん、頂かせて貰うておかげを頂かして貰うたんです。それで実は先生今日の十二時から或る人に依頼を受けて東京のもちっと向こうの方へ、トラックの運転をなさいますから参りますと。もう随分止めたんですけども、どうでも約束をしておるから行くといってから参りますから、どうぞ無事に帰って参ります様にという所謂願いなんです。
 こちらへ下がってから、その話をお取り次さして頂いてから話したんですけども、そげん時、止めるもんがあるもんかちいうて話しました。それが昨日なら、止めなければならないかもしれませんね。けれども今日は止めてはいけませんよ、と。皆さん分かるでしょうが。信心さして頂きよるとですね、段々自分達の在り方というものが、神様の心に叶う様になる。ですから、それが天に通ずるのです。
 天に通ずるからいうなら神様がいうなら天地が、私共の為に動きなさる様な働きなさる様なものが、私共の周辺に感じられる様になるのです。何故私が一昨日ならいかんけれども、昨日ならいかんけれども今日はいかん事はないどうして止めなさるんですか。そげな時には止めなさるもんがあるもんですかという、私が言うた意味が皆さん分かるだろうか、特にここで御信心の稽古をなさる方は成り行きを大事にせよという事を私は申します。それは、今日私が申します、所謂神様から頂きました通天、天に通ずる。
 私は尊い修業でもあり道でもあると思うからなんです。例えて言うならばその幸若さんの場合、主人が今日或る方に依頼を受けて東京の先の方まで参る事になっとりますけれども、どうも腰が痛んだり急に腹が痛んだり致しますといけません。どうぞ行けます様にではなくてです、そこん所に神のいうなら、神の声を聞かなければならない。昨日迄あんなにピンピンしとったのが。
 今日東京に行かなければならない事になって、言わばそれを障害するかの様に、いやそれを止めるかの様に、体の上にそういう現われがあると云う事は、もう天に通じておるからなのである。いや行くな行くな、今日行っちゃ早すぎる。いや今日行きよったら災難にあう、例えばそう言う様な神様の声を、その時聞かなければいけんのです。そうでしょうが皆さん、分かられるでしょう。私が止めるもんがありますかい。
 昨日なら止めにゃならん、昨日迄痛みよったね。そんなら止めんならんけれども、今日はおかげを受けておる。もう立ち働きがでけておるのであるから、はあ神様のご都合ちゃ恐れ入ってしまう。今日から東京にやらせて頂くが、今日は一寸腰も立たせて貰う、痛みが取れてやらして頂く。もう東京行く事は神様にお許し頂いておる様なもんであるから、東京にやらせて頂いても安心だという事になるのじゃないですか。そういう、その自然の働きというものがありますから。
 自然の働きを、常に大事にしておかなければならない事が分かりますね。自然の働きの中には面倒臭い事もあるのです。損になる事もあるのです。いやな思いをする事もあるのですけれども、そのいやな思いをする時でも、損になる様な時でも、自然にそういう働きが、自分の前に起きて来た場合これは有り難く頂かにゃいけんのです。昨日、善導寺の久保山さんが、何時もお孫さんが学校に行きますから、学校に行く前に学校に送り出してからお参りなる。
 ところが、昨日どうした事だったか時間を一時間間違えとった。さあ早よう起きにゃ起こしてご飯頂かして、所がもう一時間余裕がある。順子さんが一時間寝られるのに惜しかったという訳なんです。けれども惜しかったんじゃない、こりゃ神様のご都合ばい。順子さん合楽にお参りさして頂いてから、充分時間があるけん、おばあちゃんと一緒にお参りさして頂いてから、学校に行こうじゃないのとこういう訳なんです。
 お参りして来てから孫とお婆ちゃんが非常うに有難い風ですね。お参りして来たという事。学校前にお参りしてきたという事ね。私はそういう時にです、まあ一時間早う起き過ぎた。まあ一時間寝ろう。それじゃったら折角の神様からの、言わば天の働きをですね、無にする様な事だと私は思うですね。そこにどういうおかげが待ち受けとるやら分からんのです。それを無にしてしまわなければならん。
 是は神様は今日は、その孫と一緒に、合楽に学校に行く前にお参りさして頂こうという、神の声をお婆ちゃん聞かれた訳なんですよね。神の声を聞くと云う事はそう云う事だと思うんです。そうして昨日の朝のご理解を頂かれた。今朝、朝の御祈念に参って来ておられますね。そう云う事にです、おかげが進展して来るんですよ。神の声を聞くてんなんてん、そげなというけれどもです。
 私共がですね、お道の信心さして頂くとですね、今までよりも確かに変わった在り方にならして貰う、いわゆる真を追求していく訳なんです。いくらか真になるのです。いわゆる日々、いわゆる御教え頂いてから、真へ真へと道を辿らして貰うのです。ですからいわゆる、天地と通ずる所のおかげを頂かれて、いうなら天地が自由になって下さる事の、おかげも頂かれるのです。
 ここのお庭が皆んな、客殿に座ってから見事だ。なんの庭が見事じゃない、庭に継ながっている耳納山が見事なんですね。まあだ何の変哲もない、まあだ植込も充分にしてない、芝も植えてない庭が見事ちいう筈はないのだけれども、皆がああ素晴らしかとこう言う。お庭が素晴らしいのじゃない。そのお庭に継ながっている耳納山が素晴らしいのである。それを庭師の方達は借景というね、景色を借りて来るという訳なんですね。庭には、この借景というものがなからなければ値打ちがないといわれておる。
 どんなに良い庭でもその向こうに自動車がブンブン走っておったり、煙突が見えておったりしたんじゃ、もう庭の値打ちはないというわけなんですね。その庭に続いて海が見える庭に続いて耳納山が見える、山が見えるそれを借景という。私共の日常のなりわいいわゆる生活の中に、そうした何時も自然との素晴らしい継ながりというものが有り難いのです。お道の信心をしておって有難いという事は、只拝みよります。
金光様の信心をしよります。おかげ頂きますよというだけではなくてです、何時もそうした自然との継ながりというものがです、素晴らしいのです。私はそれをあんまり他所では聞きませんですね。椛目に参って来て初めて、合楽に参って来て初めてそれを聞くのです、神様との継ながりというだけではなくて、自然との働き、その継ながり。そこで自然をいうなら、素晴らしいものがあっても、借景がなかった。椛目にお参りして来る様になったら、その借景というのが分かる様になって来た。
 天地とのつながりが分かる様になって来た。たいした値打ちはないのだけれども。耳納山がバックにあるところに、そのずうっとつながっておるところに、ここのお庭が皆さんが素晴らしいと言われるのはそこにあるのである。金光様の御信心を頂いておるというてもです。合楽は素晴らしい、合楽の御信者さん方は素晴らしいと、もし言われる様に段々ならなければならんが、その見えるというのは、合楽の御信者さん方は、皆んな天地と繋がっておる。
 何時も天地に通うておる。何時も天地の声を声として頂いておる。何時も神の声を聞けれる人ばっかりなのだ。そこに私は、合楽の御信者さんの素晴らしさが、発揮されて来なければならないと言う風に思うのです。まだ数えて言うならば、二十回か三十回でしょうね。幸若さんがお参りしてみえたのは、その幸若さんが、もうすでに天地に通うて行きよる。そしてはあ、なるほどなあという訳である。
 はあ本当に、昨日は神様許して下さったからこそ、今日おかげを蒙っておるんだと。五日か六日何か商売だそうですから、そうですけれどもその間を、不安焦燥心配が無くなって来る訳なんです。神様のお許しを頂いてから行くのである。そういう事を、私が何時も詳細な事の中にも申します様に、道を歩きよってもです、例えばゴーストップのところで行った途端に、赤の電気がついた。
 遮断機が下りたという時には、神様が一寸お前の心の中を振り返ってみろよと、そういう神の声を聞かなければいけんのですよ。なにか、神様にお願いをして、急な時なんかはですね、もうそれこそ、どこにもゴーもストップもないです。それこそ本当に、置いたものを取る様にして、行ける様なお繰り合わせを頂けるんです。そういう時にです、神様が早く行っちゃいけない。
 いや反省さして頂くと、はあ自分が今こげな、ろくな事を思うとったなんてん、言った様な事があるんです。体験してごらんなさい。自然をですね、神様は何時もそう言う様な、いろんなところにも、お働き下さるのですよ。信心を頂いておりますと、特に合楽におかげを頂いておる方は、もう私の信心のいうなら生命というか、一番素晴らしいというなら、そこなんです。
 私の信心の神髄は、何時もその代わりに成り行きを大事にする。そこから、その成り行き、自然、いわゆる、天地が私の一人のためにでも、働いて下さるという様な、おかげが受けられる。これはもう例をあげりゃ限りがないですね。私の一人のために照ったり、降ったりすると思われる様なおかげが、自分の周辺に頂ける様になって来るのです。天に通ずるという真。
 その真を追求してまいりますと、神様が段々私共の身近に、働きを見せ感じさせて下さる様になる。至誠、天に通ずる。真の成就せんことなし。成就せん時には真が欠けた時だと悟れとこうおっしゃる。その真を私共が追求してまいりますところにです。ただいま申します様な天に通ずる道が、だんだん付いて来るんだなあと、いうおかげが受けられるんで御座います。
 どうぞ、その教祖の神様がおっしゃっておられたそうですね。自分はこのごろ、天にじゃろうか一家内がでけたという、いわゆる、親戚がでけたということですね。それからこのごろは、降る照るの事まで教えて下さるようになった、と言うふうに言うておられますですね。天に親戚がでけにゃいけません。何時も音信がある、何時も便りがあり通しにあっておるのです。
 それを私共が真をもってそれを頂いていく。真をもってそれをキャッチして行くところのおかげ、いよいよ真を追求していく。キリスト教で愛を、いうなら仏教で慈悲を説くなら、お道では矢張り真を説くのです。ですからその真を追求して行くところに、だんだん真の人としての、私は人となりが備わって来るんだとこう思う。
   どうぞ。